郷里

今でも思い出すのは、郷里を離れて初めて東京に向かった日の寝台特急列車のことだ。奇跡的に東京の大学に合格したわたしは、今はもうない、寝台特急「富士」で上京することになった。父や母、妹たち、そして、おそらく、母方の叔父も見送りにきてくれていたように記憶している。 父母や妹たちはともかくとして、叔父が見送りにきてくれていたことをなぜ覚えていたかというと、当時小さな食堂を経営していた叔父が手作りしてくれた弁当を、抱えて乗車したことをはっきりと覚えているからだ。その弁当には、わたしの好物である「とり天」がぎっしりと詰められており、にんにくとかぼすをたっぷりと含ませた酢醤油の香りがあたりに漂っていた。

発車時刻は午後六時ころだったろうか。わたしは大分を出ると、別府の駅を待たずしてその弁当を食べ始めた。すこしはまわりに香りが広がることを申し訳ないと思っていたような記憶もあるが、要は好物を早く食べたかったのだ。わたしにとって叔父の「とり天」はこの世で最上のたべものだ。三十年東京にいたが、いまだに叔父の「とり天」を越える「鳥料理」に出会ったことがない。

わたしにとって郷里とは、海の記憶と同じと言ってもよい。母方の実家は一尺屋という鄙びた漁村にあり、いまではすっかり「関アジ」や「関サバ」で有名になってしまった佐賀関半島の突端に位置している。当時は祖父もまだ漁に出ていたし、みかん農家でもあった祖父母の家の蔵には、漁に使う網と山のようなみかんがいつも収められており、潮の香りと盗み食いをしたみかんの酸っぱさ、甘さはなかなか記憶から消えるものではない。

祖母はよく、鯵寿司を作ってくれた。酢飯のうえに小ぶりだが分厚い身をした鯵が乗っている。鯵のシャリを挟んだ反対側には紫蘇が貼られており、鯵のまったりした脂と紫蘇のさっぱりとした風味がことのほか合い、小学生であったわたしでも、何個でも食べることができた。祖母はわたしが一尺屋を訪れると知ると、前の晩から仕込んで、徹夜で作ってくれていたらしい。

一尺屋の海は、昔は遠浅の美しい浜だった。鐵鋼会社の工場ができるからと埋め立てられてからは潮の流れが変わり、沖に置かれたテトラポットはきめの細かい砂を全てこぶし大の石と岩に変えてしまった。それでも、夏休みになると、わたしはいとこたちと一緒に一尺屋の海で朝から晩まで泳いでいたものだ。泳ぎ疲れて家に帰ると、わたしたちを待っていたのは鯵寿司であり、みずみずしい西瓜だった。

食べ疲れて昼寝し、眼が覚めるとまた海へ出かけた。夕方の海は美しかった。いとこたちと貝がらやどこからか流れついた硝子の欠片を拾い集めながら、暗くなるまで浜辺で海を見つめていた。硝子の欠片は波に洗われて未知の宝石のような光を宿していた。大人になってから、海外にも行き、ずいぶんと宝石も見てきたけれど、いまだにその硝子の欠片よりも美しい宝石は見ていないような気がする。

一尺屋の祖父母の家は今でも健在だが。母方のきょうだいの、どういう諍いなのかわたしは知らないのだけれど、そのせいで、母もわたしも祖父母の家には入れなくなってしまった。わたしは三十年ぶりに大分に帰ってきたわけだけれども、わたしにとっての郷里であり、わたしにとっての海であり、「鯵寿司」である一尺屋は手の届かないところにある。いつの日か、せめて父と母が健在であるうちに、もういちどあの昏れなずむ海を、あたりが波音だけになるまで見つめることができるようになるのだろうか。それができないうちには、わたしは本当の意味で「郷里」に帰ったことにならないように思うのだ。