『悪魔を憐れむ』を読んでミステリーについて学んだこと

「ミステリーって何?」と聞かれても、ぱっと答えることができない。わたしのミステリーに関する知識なんてそんなものです。江戸川乱歩や横溝正史は全て読みましたし、クリスティのポアロシリーズやシャーロック・ホームズものはほとんど読んでいますが、それも学生のころの話です。「フーダニット」が何であるのか、「新本格」が何であるのか、それすら知らないレベルです。それではいけないと、先月あたりから古典ではなく、新しいミステリー作品をたくさん読むことにしました。そのうちの一冊が西澤保彦さんの『悪魔を憐れむ』です。

ミステリー(特に本格、新本格と言われるミステリー)は、わたしの中ではトリック重視、意外性重視、どんでん返し重視、という印象が強く、どちらかというと人間描写は二の次、という先入観を持っていました。しかし、この『悪魔を憐れむ』を読んで、それが完全に間違っていることを学びました。この本はいわゆる連作短編小説なのですが、物語それぞれのトリックは、人の心、人間の本性、悲哀といったものがあって初めて成り立っていることに気付きました。

「無限呪縛」は、一見空を飛ぶ時計の仕掛けを明らかにすることが謎解きのメインに見えますが、実はそれは表面的なものに過ぎなく、実は人の心の奥底に真の謎解きがありました。しかも、ひとりの男の本妻、愛人の愛憎という定型的な流れに落ち込まず、本妻と愛人の真の心の姿というものが底流に流れていて、読後感がしみじみと情緒深いものになっています。

「悪魔を憐れむ」は、ひとりの悪魔的な男の異常な心理が引き起こす事件です。これも一見、学校の校舎とエレベーターのトリックを解くことが本筋と思わせておいて、実はそれは表面のことで、男の悪魔的な心理や行動が彼自身の生い立ちからインプリメントされたものであり、所詮彼自身も悪魔の被害者に過ぎず、真犯人を彼と断ずるには余りに哀しい物語でした。

「意匠の切断」では残虐な死体切断事件を扱っていますが、頭と手首の置き場所の謎が被害者たちとは全く関係ないところから解きほぐされていきます。トリックそのものよりも、犯行に至った犯人の心の動きが実は本筋なのです。「死は天秤にかけられて」についても、表面はホテルの異なる階を行ったり来たりする不審な人物の犯罪とトリックなんですが、本筋は恐るべき女心とそれを読み誤った男の因果応報的な末路です。

人間は社会派ミステリーが描き、トリックは本格、新本格ミステリーが描くもの、という先入観が間違っていました。社会派であっても本格であっても、ミステリーはやはり人間と人間の物語であって、主役が死体でもなければましてやトリックではないということに気付かされました。

ミステリーは人間というものを徹底的に見つめて咀嚼し、消化しきって初めて成り立つもの。だからこそ、人が人である限り、無限に創作の泉は湧き出で、枯れることはないのだろうと。そういえば、子供のころによく読んだ横溝正史もクリスティも、トリックは鮮やかですがその底流に流れているのは「人間というもの」の描写だったな、と今更ながら思い至ったのでありました。