テレビ版ポアロ『オリエント急行の殺人』に見る近代合理的精神の敗北

アガサ・クリスティが産み出した名探偵エルキュール・ポアロは様々なメディアで映像化されています。その中でも恐らく最も人気のあるものが1989年から2013年にかけて13シリーズ全70話にわたって放映されたイギリスのロンドン・ウィークエンド・テレビ制作の『名探偵ポアロ』でしょう。デヴィッド・スーシェ演じるポアロは名探偵の切れ味とコミカルなテイストが絶妙で、わたしも大好きなシリーズです。その中でも、わたしが最も衝撃を受けて、何度も見返しているのが第12シリーズ第64話の『オリエント急行の殺人』です。

このシリーズは序盤はどちらかというと明るく軽快なテンポで各話が展開されていくのですが、中盤を過ぎるとスーシェが歳を取ったこともあって、若干陰鬱な影が窺えるようになります。そして、この『オリエント急行の殺人』ではポアロ独特のユーモアもコミカルさも全く姿を消し、ひたすら苦悩するポアロの表情が繰り返し描写されて、他の回とは一線を画するものになっています。

エジプトでの事件を解決したものの、それが原因で犯人が自殺してしまうのですが、それを半ば責められるような形で、重い石を呑み込んだ沈鬱なポアロの表情から始まるこの物語は、爆走するオリエント急行の危うさと、美しくも峻険な自然の厳しさを感じさせる背景の巧みな組み合わせが観ているものをなんとなく不安にさせ、いつの間にかポアロの鬱々とした心を自分のことのように共有させてしまいます。

そんななかで発生する12人の「陪審員」たちによる殺人。彼らは自分たちの行為を「正義」であると主張し、被害者は殺されて当然、むしろ真実を暴こうとするポアロは悪魔の手先であるように非難します。ポアロはそんな彼らに対して叫びます。「あなたたちは! 陪審員を気取って正義を振りかざすとは! そんな権利は誰にもない!」彼らは言います。「私たちは善人だったのに悪魔が塀を乗り越えてきた。法に正義を求めたけれど、失望させられただけ。」ポアロは返します。「違う。今のあなた方は町のならず者と同じだ。好き勝手に隣人を裁いていた中世と同じだ! 法の精神が揺らいだときは、私たちが必死に支えるべきだ。それが崩れたら文明社会は全ての拠り所を失う」この時のポアロの表情をわたしは忘れることができません。鬼の形相。必死にぎりぎりの一線を守るような気迫。「陪審員」は言います。「法の精神より崇高な正義があるわ」ポアロは絶叫します。「それなら神に委ねればいい!」しかし、彼らはその神でさえ疑う言葉を吐くのです。そしてその口で、「神は”罪なき者に最初の石を投げさせよ”と言った。わたしたちがその”罪なき者”である」と言います。

このあとポアロがどういう行動を取ったかは、実際にドラマを観ていただきたいですが、このポアロと「陪審員」たちとのやり取りは、この現代をそのまま言い表しているように感じられてなりません。合理性と論理性は近代市民たちが歴史の中でもがき苦しみながら勝ち取り、辿り着いたひとつの結論です。この世には最善の解はありません。これだけ多様な国と民族と価値観が渦巻く世界で、これが正しいというものはなにひとつないのです。しかしそれでも、より良いもの、まだましなもの、それが精神の合理性と論理的な物事の考え方、そしてそれを法の精神として内包した近代社会規範だったはずです。それが、まさに、いま、この「陪審員」たちのような人々によって、脅かされているのではないか。そんな気がしてなりません。

「法の精神が揺らいだときは、私たちが必死に支えるべきだ。それが崩れたら文明社会は全ての拠り所を失う」

このポアロの言葉の重さに、わたしはこのドラマを観るたびに打ちのめされ、自分は大丈夫だろうか、自分はかくあることができるだろうかと自問自答せざるを得ないのです。